・史伝
 ・年普

■史伝  

◇横綱を考案。

「横綱」は、吉田司家十九代追風が寛政元年( 1,789年)の十一代将軍家斎公の上覧相撲に於いて、それまで最高位であった大関の中でも特に強さと品格を兼ね備えた力士に「横綱」という称号を与え、免許を授与、「土俵入り」を考案したのに始まります。

当時の江戸は、老中松平定信の「寛政の改革」により市民の意気は沈滞気味であったため、この上覧相撲を盛時に執り行うことは勿論の事ながら、何か新しい演出を図り、将軍家の威信を誇示すると共に、市民の意気を鼓舞する必要がありました。

司家十九代追風は、寺社などを建立するとき相撲の最手(ほて)を二人招き、地鎮祭の地固めの意味で地踏みを行わせる儀式と、その時使われる注連縄(しめなわ)にヒントを得、これを勧進相撲の本土俵にとり入れることで新たな演出効果が得られるのではと思い立ちます。

このアイデアに添い、 谷川梶之助 ・小野川喜三郎に「横綱」の免許を与え、麻で編んだ注連縄を化粧廻しの上に結んだ形で四肢踏みの儀式を始めたのが横綱土俵入りの最初となりました。

▲十九代追風が横綱を考案したときの「綱」の作り方

以降、横綱免許は代々司家当主(追風)から三役格以上の行司免許と共に授与されるようになり、起請求(誓約書:写真)が横綱から司家へ差し出され、綱の責任と権威が保たれていました。

▲小野川喜三郎が横綱免許授与にあたり吉田司家に対し、横綱の栄誉を汚さぬよう誓った起請文

この横綱誕生は大変な人気となり、上覧相撲はもとより勧進相撲に於いても横綱の土俵入りは欠くべからざる演目となり、相撲の目玉として今日まで相撲人気を支える大きな柱として伝承されています。

なお、当時の横綱は、今日のような力士最高の地位を意味するものではなく、上覧相撲など特別な機会がある時、土俵入りの儀式を見せるため授与されたものであったため、超強豪大関といわれた雷電為右衛門は、残念ながらこの機会に恵まれず、横綱として歴史にその名を残すことはありませんでした。

◇横綱、立行司は、司家の故実門人に。

吉田司家には、故実門人という慣しがあります。最初に故実門人に差し加えられたのは、伊勢の海始祖式守五太夫で、十六代追風により「相撲故実に精通し、相撲道の発展に寄与した」として司家の門人となりました。十七代の時代には、綾川五郎次、丸山権太左衛門も来熊し司家を訪れ、門人願いを提出の上故実門人を許されて以降、横綱及び立行司(木村庄之助・式守伊之助)は司家より故実門人証が現在も授与され今日に至ります。

▲双葉山の横綱免許願

▲立行司褒命願い申請書
 
▲不知火諾右衛門への横綱免許状  

また横綱・立行司のほかに、相撲道の発展に寄与した方々が、故実門人を差し加えられる場合があります。この方々の国技相撲道の普及発展に対する努力貢献は甚大なものがあり、現在も全国各地で相撲故実の伝承、アマチュア相撲の普及活動に活躍され、今日の相撲道の盛隆に貢献されています。

◇学生相撲大会優勝者へ「練絹(ねりぎぬ)」を授与。

「練絹」とは、大相撲の横綱へ授与する綱を「横綱」と呼ぶのに対し、アマチュアの場合、「練絹」又は「練手綱(ねりたずな)」と呼び、横綱の如く締めて使用はせず、栄誉を称える証として授与されます。大正八年の第一回大会より個人優勝者へ「練絹」を授与、その栄誉を称え今日までその慣しは継承されています。横綱輪島は学生相撲横綱として2回、大相撲横綱の合計3回授与され、昭和五十七年度全国学生相撲選手権大会(大阪堺の大浜相撲場)では、同志社大の服部裕児(当時・元伊勢ヶ浜部屋十両)が優勝し授与されています。

▲学生横綱を授与される服部

吉田司家 一味清風会
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