皆様方には、日々相撲道の普及発展にひとかたならぬご尽力を賜り、よって国技相撲道は益々隆盛を極め厚くお礼申し上げます。また、皆様方のご健勝の段、併せてお慶び申し上げます。

本来相撲とは農耕民族である日本人が神に五穀豊穣を祈り、感謝し、その心を奉納する農耕儀礼の儀式が発展した神事です。土俵に使われている俵が、その昔は米俵そのものであった事実や、全国各地に今でも伝承される相撲故実の謂われ、奉納相撲が村の鎮守の神の境内で行われている事実がなによりの証拠であります。

このように相撲は国技として日本人の心の中に深く根ざし、農民とは切っても切れない深い結びつきで今日の如き盛隆を極めている訳です。

「相撲は礼によて始まり、礼によって終わる」という言葉は、相撲の真髄は単に体育奨励のみにあらずして、精神の訓練、人格の陶治にあるという理念を言い現したもので、力士が土俵に登場し、塩をまいて四股を踏む登場礼式もこの儀式の故実であります。したがって相撲道ほど、礼儀礼節を尊ぶスポーツは他にはないと言っても過言ではありません。

「相撲と農業、そして国民の健康づくり、心豊かなたくましい青少年の育成、吉田司家の故実の伝承」をテーマに、今後努力まい進したいと存じます。

皆様方の温かいご支援ご協力を賜りますよう 哀心 よりお願い申し上げます。

◆一味清風会 代表 吉武 克敏

「一味清風会」とは
吉田司家正面
▲旧吉田司家正面(熊本県)

吉田司家は、我国の国技である相撲の歴史とともに歩んできました。

農耕民族である日本人が、五穀豊穣を神に祈った年占いの神事に起源を持つ相撲は、朝廷の公例行事「三度節」のひとつでもある相撲節会、武家相撲、そして広く一般庶民に親しまれるようになった勧進相撲を経て、現在の大相撲や、全国各地で催される奉納相撲、アマチュア相撲にと、その伝統は受け継がれいます。

御代文治二年( 1,186年)、それまで中断されていた相撲節会復興に際し、相撲の故実旧例に詳しい吉田家始祖豊後守家次は、越前の国より後鳥羽天皇に召されました。吉田家は相撲節会の典義を故実旧例に従い無事勤め、「国技の古き伝統を守り伝えよ」という訓を託した「追風」の号を獅子王の団扇とともに授けられています。

弘治年間( 1,555年〜)当時、相撲は「角力」と称し、唯一の競技として人気はあったのですが、単なる力くらべに過ぎないものになっていました。相撲本来の礼儀礼節を尊び、故実旧例にならう相撲道から大きく離脱の様相に、吉田家十三代追風は土俵上の登場儀礼(力士が土俵に上がり行う動作及び型)を定め、神技であった相撲を、国技の“道”として確立。時の正親町天皇より永禄元年(1,558年)相撲全般を取り仕切る行事官を命じられ、「マカロオ」の団扇を勅賜されました。

相撲三神(天照大神、手刀男命、戸隠命)を祀った社。 方屋

▲相撲三神(天照大神、手刀男命、戸隠命)を祀った社。新しく横綱になった力士は、司家を訪れ、相撲三神の土俵で奉納手数入を行い、今後の活躍と安全祀願を行った。

▲旧方屋(熊本県)
元亀年中( 1,570年〜1,572年)関白ニ条晴良公より「一味清風」の四文字が記された団扇を授与された追風は、以降「国技相撲道に二派はなく、常に一味(ひとつの派のみ)の作法で相撲道を守ること」を、相撲界はもとより、吉田家の家訓として代々伝授していきました。

十五代追風の時代になると、朝廷が衰微し、相撲節会も中絶となったので、相撲愛好家として知られる肥後藩主細川綱利公に仕えることになります。万治元年( 1,658年)熊本に移り、細川家厚遇のもとで相撲屋敷を定め、徳川幕府より国技相撲道の諸々の例式の相伝、免許を司る許可を得て、武家相撲及び将軍上覧相撲の式故実作法を定着させました。

このように吉田司家も国技相撲道の返還とともに朝廷の相撲司から、武家の本朝相撲司御行事へとその役目も移りますが、相撲界に於いて最も重きをなすに至ったのは、将軍家斉考案、谷風・小野川に横綱を免許し、現在も行われている土俵祭(本場所の前日)の式法や、横綱の土俵入りの型を定めた事です。

以降は、横綱に「綱」を授与し、故実門人及び三役格以上の行司の免許を授与していました。

また明治維新の旧物破壊の大怒涛の中、「裸体でとる相撲は未開野蛮人の行為で国辱だ」と相撲廃止論が起こった時には、相撲宗家として国技相撲道の護持のため力を尽くします。さらに東京・大阪両相撲会所の対立に於いても一本化を図り、相撲協会の設立、国技相撲道の発展に貢献しました。

これら吉田司家の故実伝承、相撲道を後世に伝える事を目的としたのが「一味清風会」です。

今後も「一味清風会」は、相撲道の精神にのっとり、相撲の継承、発展に努めてまいります。